斯多葛派哲学家们将实体与事件区分开,称后者为非实体。对他们而言,一切存在之物皆为实体,甚至我们心目中的非物质之物:灵魂、冷热、干湿、声音与色彩。然而,除实体外,还存在着非实体的事件,即一个实体对另一个实体产生的影响:如一把割肉刀造成伤害或进行切割而发生的事件,又如,一个事物被赋予名称,从而产生出被谈论或被命名的事件。“因此,每个实体皆可成为另一实体的某种非实体之成因。”它并非一种存在或状态,而是一种存在的方式或形式;并非另一实体,而是一种无形的属性。
用动词来表达它,比用名词来表达更为贴切。这就好比每一个实体中均存在着某种无形之物,它并非实质性的品质,而是一种发生、一种姿态、一种迹象,就如在实体的表面上起舞。石头是实体,但静止则是非实体的事件;发热是实体,但发烧导致体温突然升高则是非实体;白色是雪的品质,但“成为白雪”则是事件。一位哲学史家曾言:“斯多葛派从根本上分离了存在的两个层面:一是深层的、真实的存在,即实体;另一层面则是发生在实体表层的事件,即纷繁多样的无约束、无预设之非实体存在。”
基于斯多葛派这一透彻的分类,我们方能理解王衍成画面上所发生之一切。色彩在画面上饱含睿智地铺陈或泼洒,此非物质,亦非实体,尽管如炼金术那般精简。此乃无实体之事件。非红色,非绿色,亦非黄色——色彩依然为实体,然而成为红色,呈现绿色以及黄色之喜与悲,此则无形却尖锐且近乎猛烈之事件。斯多葛学派以“可说”(lekton)一词来定义他们最重要的非实体。希腊语中,此词为动词形式,表达某种态度或可能性,而非已完成之动作。我们亦可以同样之方式来称谓王衍成画面上的事件:此非色彩,而是“可色”;此非书写(这是中国画传统的一个深刻特征,且近年来愈加受人重视,即毛笔在色彩间的挥洒),而是“可写”;此非花蕾和花萼(有时彷佛符号凝结,而色彩深入其中),而是“可花”,甚至可称之为“浮现”。
王衍成之绘画作品,皆执拗地不带标题。它们之所以无法被命名,莫非皆因它们纯粹且简单地“可名”?
王衍成这些非实体的事件,并无确定之场域,却实实在在地浮现于眼前。它们并非缄默不语,而是娓娓道来。它们不停地浮现,只是甫一露头,便又随即潜入水中,不知其所止,亦不知其从来。弗朗茨马克(Franz Marc)谈及王衍成画作时曾言,它们是“狂喜在别处的浮现”。诚哉斯言。然而,让王衍成的非实体得以随意游走之别处又在何处呢?在2023年那一系列令人叹为观止的《无题》作品之中,那些橙色、黄色、红色和赭色,皆从何处冒出?它们犹豫不决,却又咄咄逼人,陡峭险绝,却又光滑流畅,继而又麻利机智地潜入水中。在这些画作中,天蓝或暗灰的底色并非背景,而是门槛——它们意味着将有再一次浮现,且仅仅是浮现。至于这门槛是水平的(就像2021 年那幅巨大的《无题》),抑或是垂直的,则无关紧要。重要的是,无论何种情况,皆非事物之状态,而是事件。
事实上,王衍成的绘画最特异卓群之处,或者说其“首要事件”,应是在两个无可名状之处短暂、绝望、无常的过渡。观其画作,我们醉心于一个无以得见之处,画面为其入口,稍纵即逝,遥不可及,且往往难以料及。难道这不正是所有真正绘画之定义?既为入口,亦为门槛,既为“何处”,又为“别处”——那个我们竭尽全力想进入的不可能之居所。
通路、敷居:
ワン・ヤン・チェンの絵画のために
かつてストア派の人々は実体と出来事を区別すると、出来事を非物体的なことと呼んだ。彼らにとって存在するものはすべて物体であり、魂、暑さ、寒さ、乾き、湿気、音、色のように、わたしたちには物質に見えないものまでが含まれた。しかし物体の傍らには非物体的な出来事がある。それは物体が他の物体の上に産み出す効果であって、たとえば肉を切るナイフがそこで肉を傷つけ切断するときに産みだす出来事であり、何ものかに与えられた名前がそこで語られたりそう呼ばれたりするときに産みだす出来事なのだ。「かくしてあらゆる物体は、他の物体にとっての非物体的な何ごとかの原因となる」。この非物体的な何ごとかは、存在や状態ではなく存在の様式やそのあり様であり、別の物体ではなく触ることのできない属性であり、それゆえ、名詞ではなく動詞によってよりよく表現される。
そして、あたかもすべての物体のうちに非物体的なことが起こる場所があるかのように、この非物体的なことは、実体的な特性ではなくひとつの生起、身振り、そして合図として物体の表面に舞う。石はひとつの物体だが、不動であることは非物体的な出来事だ。熱はひとつの物体だが、熱があること、温度が突然上昇することは非物体的なことだ。白は雪の特質だが、白い雪であることはひとつの出来事だ。ストア派は——ある哲学史家が述べたように——存在のふたつの次元を根源的に区分する。一方には深い現実的な存在、すなわち物体があり、もう一方には物体の皮膜において生み出される出来事、すなわち拘束もなければ定められた目的も持たない非物体的なことの夥しい集まりがあるのである。
こうしたストア派の鋭い区分から出発することではじめて、ワン・ヤン・チェンの画板のうえで何が起こっているかを理解することが可能となる。色は、画板の上にかくも巧みに引き伸ばされ流し込まれていても、実体ではない。いかに錬金術的に薄められていようが、物体でもない。それは非物体的な出来事だ。赤や緑や黄色ではなく——それらはまだ物体だ——、赤であること、緑がかること、黄色という陶酔あるいは苦悩であって、触れることはできず、研ぎ澄まされ、ほとんど暴力的なまでの出来事なのだ。ストア派の人々は、彼ら言う非物体的なことのなかで最も大切なものを「言い表わしうること」(lekton)という表現で定義していた。このギリシャ語の動詞が表わすのは、何らかの態度あるいは可能性であって、完了した行為ではない。だとすればわたしたちもまたワンの画板に宿る出来事を同じ様に呼ぶことができる。すなわち、色ではなく色にしうること、書ではなく——中国絵画の深い伝統的な特徴として色と色のあいだに筆が書を散らしてゆくのを最近ますます頻繁に見かけるが——書にしうること、花の蕾(つぼみ)と萼(がく)ではなく——ときに記号たちが凝縮し色たちが入り込むように見えるところのものは——咲きうること/生じうること、あるいは花になりうること/面に出うること、と。ワンの絵画たちが執拗にその題名を欠くとすれば、つまり名前を持ちえないのだとすれば、もしかするとその理由は、それらが純粋にして単純に、名前で呼びうることだからではないのだろうか?
ワンの非物体的な出来事は、かならずしも特定の場所に生起するのではなく、まさに面に出てくるのであり、黙するのではなくひそひそと語り合うのであり、ただひたすら面に出てきては、すぐまた皮層に潜り込んでしまう——それにしても、それは何処へ、そして何処から?フランツ・マルクは自分の絵について、まさに「どこか別の場所へと陶酔状態で面に出てくる」と語った。ワンの非物体的なことどももまたその別の場所に向かって旅をしているが、それはいったい何処に向かう旅なのか?そして、あの卓越した2023年の「無題」の数々において、躊躇いながら決然と、険しくも滑らかに姿を見せては、すぐにまたさっと自身の中へ潜り込んでゆくオレンジ、黄色、赤、黄土色は、いったい何処から現れてくるのか?
さらに、その同じ絵画の数々の背景の空色や灰色は、背景ではなく——またしても面に出ること、ただ面に出ることだけがあるような——敷居なのだ。2021年の並外れた「無題」の数々のように敷居が水平であろうと、あるいは垂直であろうと、そんなことは重要ではない。問題はいずれにせよ、ものごとの状態ではなく出来事だ。現に、ワンの絵画の卓越した資質、すなわち彼の絵画の出来事を規定する至高の出来事とは、彼の絵画がふたつの名状しがたい場所のあいだを、短い間に断片的で不安定に通過することにある。その画板をじっと見ていると、何処か他所の不可視の場所へと拐かされる。画板はそこへの通路でありながら、今にも消えそうに急きたて、迂回を許さず偶然に現れるだけなのだ。しかし、こんなふうに通路にして敷居であることこそが、すなわち「何処か」であり同時に「べつの何処か」でもあることが——それはありえない住処なのに、わたしたちは何としてもそこに住みたいと願ってしまうのだが——あらゆる真の絵画の定義なのではないのだろうか?
2023年1月、ジョルジョ・アガンベン
翻訳:押場靖志(おしばやすじ)
文/阿甘本,当今重要哲学家,译/文铮;来源:Art衍)
艺术家简介
王衍成,1960年生于广东茂名,祖籍山东。获法国国家文化骑士勋章(2006年);法国国家文化军官勋章(2013 年);法国国家文化司令官勋章(2015 年);意大利贝里艺术奖(2019 年);米开朗基罗勋章(2020 年)。 法国 Fonds De Dotation Des Beaux-Arts De Wy 美术基金会主席,法国国家 Salon Comparaisons 比较沙龙副主席,联合国教科文组织国际造型协会 AIAP UNESCO 成员、IACA 国际艺术中心副主席,罗马美院客座教授, 山东艺术学院客座教授、研究生导师,国际美院联盟 IUAA 特聘教授。
近年展览有:“微观与宏观”,意大利国家现代美术馆(2020 年);“弗里兹大师展 Frieze Masters”,伦敦(2016 年);“巴塞尔艺术展”,瑞士、中国香港、美国迈阿密;“法国 FIAC 国际艺术展”,法国巴黎大皇宫;“弗里兹大师展 Frieze Masters”,英国伦敦、美国纽约;“荷兰国际艺术展 Tefaf Masstricht”等。